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2012年5月21日更新
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羽入 佐和子
歴史教科書でおなじみの「高句麗広開土王(好太王)碑拓本」が全四面揃った状態で、新たに発見されました。
お茶の水女子大学比較日本学教育研究センターは、2012年7月7日(土曜日)にこの発見を記念する国際日本学シンポジウムを開催し、あわせて拓本の展示を行います。
縦幅5.5メートルに及ぶ四面の拓本は、拓本をとりやすくするため碑面に塗布された石灰が、はがれつつある時期のものであるため、建造当時の元の字が読める状態にある点、表装されていないため拓本の制作方法を解明できる点貴重です。
詳しい収蔵経緯は調査中(シンポジウムにて発表)ですが、お茶の水女子大学の前身である東京女子高等師範学校が1920?30年代に教材として入手した可能性が高いと考えられています。
お茶の水女子大学歴史資料館は、デジタルアーカイブズで、本拓本四面の高精細画像を公開します。
東京都文京区大塚2-1-1(〒112-8610)
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広報チーム 担当:冨山 弘
Tel:03-5978-5104,5105
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E-Mail:info@cc.ocha.ac.jp
お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科
(文教育学部比較歴史学コース) 古瀬 奈津子
広開土王(好太王)は、朝鮮半島北部から中国東北部にかけて存在した高句麗の第19代国王で、391年から412年にかけて在位し活躍した高句麗最盛期の王です。広開土王碑(好太王碑)は、広開土王没後の414年に、息子の長寿王がその功績を讃えるために建立した石碑です。現在は、中国吉林省集安市の太王陵の近くにあり、高さ約6.4m、凝灰岩で造られた不整形の方柱で、四面に約1800文字が刻まれています。碑文には、4世紀における倭が高句麗と交戦したことも記載されていて、4世紀の日本の歴史を知る上で、重要な資料となっています。
広開土王碑は、1880年頃再発見され、近代以降、日本の陸軍参謀本部や歴史研究者によって解読が行われてきました。近代日本の朝鮮半島進出を正当化するため、広開土王碑に記載されている4世紀における倭の半島における活動が注目されたためです。この過程で、多くの広開土王碑拓本が日本に将来されました。
戦後、広開土王碑の碑文が日本の陸軍参謀本部によって石灰で改竄されたという説が出され(現在では否定されています)、広開土王碑とその拓本をめぐっては、これまで多くの論争が繰り広げられてきました。
広開土王碑の拓本は、3種類に分類できます。
1. は正確には拓本ではなく、文字を縁取りしたものなので、石碑の文字を正確に表現したものとは言えません。2. は、もっとも多く流通した拓本で、主に1890年代から1930年代にかけて盛んに作られました。3. は、石碑の原状をもっともよくとどめており、資料的価値の高いものですが、碑面の凹凸がそのまま反映されているため、文字の解読はかなり困難です。
今回発見された拓本は、お茶の水女子大学の前身である東京女子高等師範学校が、1923年の関東大震災後に購入もしくは寄贈によって入手したものと考えられます。1932年、東京女子高等師範学校がお茶の水から現在の大塚の地に移転した後は、大学本館にあった歴史国語標本室に保管されていたと思われます。その後、1972年竣工の文教育学部本館(現?文教育学部1号館)が造られた際に、史学科の青木和夫先生(1926?2009、日本古代史、本学名誉教授)の研究室に移されたと考えられます。青木先生の定年退官(1992年)後に博物館学資料室に移管され、2009年頃より本学の歴史資料館で保管されてきました。拓本の詳しい収蔵経緯は調査中ですが、2012年3月、専門家の調査によって拓本の性格と拓出年代が判明したため、今回の公表となりました。
本学歴史資料館所蔵の広開土王碑拓本は、四面がそろって完全な形で発見されました。
表装はされておらず、法量は以下のとおりです。
第I面 | 縦 546cm、 横 150cm |
---|---|
第II面 | 縦 537cm、 横 101cm |
第III面 | 縦 544cm、 横 182cm |
第IV面 | 縦 532cm、 横 125cm |
一辺53cmほどの正方形の「宣紙」とよばれる中国製の紙を貼り継いで拓本全体が作られています。
2012年3月26日(月)に、広開土王碑拓本研究の第一人者である武田幸男先生(東京大学名誉教授、朝鮮古代史)をお招きして、拓本を調査していただきました。また、同年3月24日(金)には、来日中であった広開土王碑拓本研究の中国側の第一人者である徐建新先生(中国社会科学院世界歴史研究所教授、日本古代史)にも、見ていただきました。その結果、以下のようなことがわかりました。
本拓本は、典型的な「石灰拓本」です。正確な拓出年代(拓本がとられた年代)は不明ですが、拓本を詳細に観察し、現存する他の石灰拓本などを参考にすると、本拓本は、武田幸男氏が分類する「C2型」の類型に当たり、梶本益一本(九州大学図書館所蔵)や内藤確介本(東京都目黒区めぐろ歴史資料館所蔵)と類似しており、1927年頃の拓出と考えられます。
本拓本の研究史上の意義は、石灰がはがれつつある時期のものであるため、石碑建造当時の元の字が読めるような状態にあることです。また、本拓本は表装されていないため、拓本の制作方法を解明することができる点も貴重です。
広開土王碑自体は風化もあり、現状では石碑からだけで本文の文字を解読することは難しい状況にあります。そのため、原石拓本、双鉤加墨本、他の石灰拓本と比較検討することによって、広開土王碑文の読解が進むことが期待されます。
本学が本拓本を入手した詳しい経緯はわかっていませんが、前述したように、東京女子高等師範学校が、関東大震災後に、教材として復興経費で購入したか、もしくは寄贈された可能性が高いと考えられます。他にも、本学博物館学資料室には、中国古代の明器(副葬用の器物)や刀銭なども所蔵されており、また、東京女子高等師範学校では、大正年間から中国や朝鮮半島に修学旅行に出かけていて、それらとの関係も興味深いところです。
このように、本拓本の出現は、東アジアの古代史だけではなく、東アジアにおける近代の国際関係や歴史教育について考える上でも大変貴重な発見であると言えます。
2012年3月26日(金)お茶の水女子大学にて